2017/04/04

ハンディキャップがあるということ

 人生や生活において、ハンディキャップがあるということは、暮らしづらかったり生きにくかったりする元凶として、忌むべき存在だったりすると、実体験から自分も確かに思う。

 でも、勝負事において、ハンディキャップというと意味合いが違ってくるのは、なぜだろう。

 たいていは、そのままでは圧倒的に優位すぎて勝負にならないからということで、強者の方に課せられることが多いと感じる。

 人生において、ハンディキャップがあることが強者の証とは、にわかには信じがたいが、一見、圧倒的に強者と思われる人物が必ずしも精神的に満たされているかと言われると、そうでもないのかな?とは思ったりもする。

大量消費社会の中の日常経済生活で、莫大な財産や収入があり、商品や家庭環境に恵まれている人が、常に「幸せだなあ、ぼかぁ」と感じているかどうかは、預かり知らぬところだが、そんな環境でも時々小さな幸せを感じる程度なら、何も持たない僕らと変わらないのではないか?

勝手にあなたを、何も持たない僕らと同じ仲間に編入してしまって申し訳ない。

いわゆるステレオタイプの幸せという価値基準を押し付けて、仕事をしていないから不幸せだとか、恋人がいないから不幸せだとか、障害があるから不幸せだとか、顔が不細工だから不幸せだとか、一体、誰が決めたのだろうか?

まあ、簡単に言わせてもらうと、他人の不幸を嘲笑って、自分のほうが優位に立っているから幸せなのだ、という思考を幼少期からプログラミングして成り立っている、この文化の所為かな?とかは、多少思う。

そもそも、本当に不幸な人は、たいてい、他の人のことなどお構いなしで、自分の中だけで勝手に不幸になっていく。

何故、人間というものは自分が満たされたことによって得られる自己満足が最高の糧となって、それが唯一の栄養源になって、それだけでも生きていける動物だということに気づかない?

常に稼いでいないと幸せじゃないのか、常に恋人に愛されていないと幸せじゃないのか、常に欲求に満たされていないと幸せじゃないのか?

なんか、もっと幸せって瞬間的で刹那なものだと思う。

本当に自分は昨日に比べて不幸なのか、本当に自分は人と比べて不幸なのか、幸せの絶対量、最低基準て、一体誰が決めたのか?

それを決めたのは神様でも他人でもなく、つまるところは最後は自分自身なんだと思う。

何故、ハンディキャップがあるものが強者なのか?

それは、その者の幸せが他人との対比ではなく、自分自身のハンデを乗り越えて達成されたときに感じたり、ただ自分が生きているだけで、自分の愛しているものが生きているだけで、幸せだと感じることができるからだと自分は思う。

ただ、歩けるだけで幸せ、ただ、美味しいものが食べれるだけで幸せ、ただ、きちんと眠れるだけで幸せ、ただ、あなたがそこにいてくれるだけで幸せ。

必要なことは、ただ謙虚に、自分の人生を見つめなおすこと。

幸せが瞬間的で刹那だということ、分をわきまえれば必ず訪れると認識を改めるだけで、今は苦しくても、その未来に必ず幸せはやってくる。

そしてそのことを憶えていられれば、人はその刹那の思い出だけでも十分生きていける。

今日、かかりつけの医者に行ったら、20年来の、最近音信不通だった友人に会って、こんな胡散臭くて宗教的な、それでいて至極当たり前の考えに思い至りました。

彼は相変わらず聡明で、笑顔が素敵で、でも、病気が思わしくなくて少しだけ苦しそうで、ちょっとだけ不幸なのかな?と思ったけど、僕は彼が生きていてくれただけで嬉しくて、ちょっとだけ幸せに感じて、期日を指定しない再会の約束をして別れてきました。

あの頃の僕は何も持っていなくて、どん底の人生だったけれど、彼と一緒に過ごせてそんな状況でも笑えたことは、本当に幸せだったなと、改めて思いました。

本当に僕は何もできないでくのぼうだけど、入居者の皆様に刹那でも幸せを感じてもらい笑顔になってもらえる、彼のような温かいケアワーカーになりたいと改めて思いました。

結構今、つらい状況だけど、頑張るよ、俺。

ありがとう。
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