2017/04/15

まだ、左手が使えんとです。

ようやく、体と頭が自分の手によって洗えるようになりました。

左手はまだまだですが、とりあえず右手が使えるようになりました。

憂さ晴らしに模型を買おうと本厚木まで出ましたが、結局、模型は買わず、戦車模型のハウツー本を買いました。

「HJ編 戦車模型製作の教科書」というもので、初歩的な模型の作り方から、ジオラマの作り方まで網羅されています。

初期のこのブログの名前が「ダイオラマの礎」というのですが、少しずつメインテーマに近づきありますね。

ガンプラで2回ばかし、ジオラマを作っているのですが、そろそろ本格的なものも作ってみたいですね。

まずは、左手を治さないといけないですね。

焦らない、焦らない、一休み、一休み(笑)
2017/04/11

平気な顔して、また模型が買える日々のために・・・

明日から、軽作業のみの業務ということで、仕事に復帰します。

やはり、月末まで介護業務は、ドクターストップがかかりました。

とりあえず、主業務のワーカーをできるだけサポートできるよう、頑張ります。

また、模型を買うために働く、日常に戻ります。

生きていて良かったです。

2017/04/08

ちょっと、難しいかな…

月曜日に仕事復帰予定なのですが、やはり完全には痛みが取れず、月曜日に仕事に復帰するのはやはり難しいかもしれません。

まあ、自分の体のことだから、ウスウスとは気づいていたけれどね。

最初に行った整形外科がいい加減で、レントゲンを撮って骨折をしていないことが分かると興味を失って、右手首の捻挫はスルー。左手小指の脱臼も、峠で自分ではめたので当たり前なんだけど、きれいにはまっていて問題ないが、腫れているから一応添え木をしておこうかと、中学生でもできる簡単な処置をされて帰されました。

診断書が必要なので書いてもらったのですが、何日くらい休みたい?とりあえず、今週いっぱい休めるようにしようか?ということで、診断書を書いてもらい、ロキソニンテープを処方してもらい、初診ということで8100円とられました。

いい加減な医者だと分かっていて受診した自分が悪いのだけれど、それを差っ引いても、その整形外科には怒りしか感じない(笑)

なぜ、その整形外科を受診をしたかというと、レントゲンを撮ってもらう必要があったのと、係長に怪我で休む旨を連絡したときに、かかりつけの整骨院に行って診断書を書いてもらっていいですか?と尋ねたところ、ちゃんとした病院に行って、と言われてカチンときたから。

冷静に考えると、件の整形外科もちゃんとした医者ではないのかな(笑)

普段、自分のことは人に責任転嫁しないように心がけているつもりだが、気持ちが焦るばかりで冷静になれなくて、それで判断ミスをしたかもな・・・

同日に整骨院に行くと発狂しそうだったので、翌日行ったら、これは全治の判断はいまのところできないひどい怪我だということで両手にギブスをされて、現在不自由な生活を送っています。

今日も、整骨院で診てもらったんだけど、復帰を焦っていることに関しては、学生スポーツの選手みたいなメンタルだね、と冗談を言われましたね(笑)

自分にはもう、学生のような輝ける未来はないけど、一晩ぐっすり休んで、月曜日以降の身の振り方を考えようと思いますm(__)m

これが今のつらい状況です(笑)
2017/04/04

ハンディキャップがあるということ

 人生や生活において、ハンディキャップがあるということは、暮らしづらかったり生きにくかったりする元凶として、忌むべき存在だったりすると、実体験から自分も確かに思う。

 でも、勝負事において、ハンディキャップというと意味合いが違ってくるのは、なぜだろう。

 たいていは、そのままでは圧倒的に優位すぎて勝負にならないからということで、強者の方に課せられることが多いと感じる。

 人生において、ハンディキャップがあることが強者の証とは、にわかには信じがたいが、一見、圧倒的に強者と思われる人物が必ずしも精神的に満たされているかと言われると、そうでもないのかな?とは思ったりもする。

大量消費社会の中の日常経済生活で、莫大な財産や収入があり、商品や家庭環境に恵まれている人が、常に「幸せだなあ、ぼかぁ」と感じているかどうかは、預かり知らぬところだが、そんな環境でも時々小さな幸せを感じる程度なら、何も持たない僕らと変わらないのではないか?

勝手にあなたを、何も持たない僕らと同じ仲間に編入してしまって申し訳ない。

いわゆるステレオタイプの幸せという価値基準を押し付けて、仕事をしていないから不幸せだとか、恋人がいないから不幸せだとか、障害があるから不幸せだとか、顔が不細工だから不幸せだとか、一体、誰が決めたのだろうか?

まあ、簡単に言わせてもらうと、他人の不幸を嘲笑って、自分のほうが優位に立っているから幸せなのだ、という思考を幼少期からプログラミングして成り立っている、この文化の所為かな?とかは、多少思う。

そもそも、本当に不幸な人は、たいてい、他の人のことなどお構いなしで、自分の中だけで勝手に不幸になっていく。

何故、人間というものは自分が満たされたことによって得られる自己満足が最高の糧となって、それが唯一の栄養源になって、それだけでも生きていける動物だということに気づかない?

常に稼いでいないと幸せじゃないのか、常に恋人に愛されていないと幸せじゃないのか、常に欲求に満たされていないと幸せじゃないのか?

なんか、もっと幸せって瞬間的で刹那なものだと思う。

本当に自分は昨日に比べて不幸なのか、本当に自分は人と比べて不幸なのか、幸せの絶対量、最低基準て、一体誰が決めたのか?

それを決めたのは神様でも他人でもなく、つまるところは最後は自分自身なんだと思う。

何故、ハンディキャップがあるものが強者なのか?

それは、その者の幸せが他人との対比ではなく、自分自身のハンデを乗り越えて達成されたときに感じたり、ただ自分が生きているだけで、自分の愛しているものが生きているだけで、幸せだと感じることができるからだと自分は思う。

ただ、歩けるだけで幸せ、ただ、美味しいものが食べれるだけで幸せ、ただ、きちんと眠れるだけで幸せ、ただ、あなたがそこにいてくれるだけで幸せ。

必要なことは、ただ謙虚に、自分の人生を見つめなおすこと。

幸せが瞬間的で刹那だということ、分をわきまえれば必ず訪れると認識を改めるだけで、今は苦しくても、その未来に必ず幸せはやってくる。

そしてそのことを憶えていられれば、人はその刹那の思い出だけでも十分生きていける。

今日、かかりつけの医者に行ったら、20年来の、最近音信不通だった友人に会って、こんな胡散臭くて宗教的な、それでいて至極当たり前の考えに思い至りました。

彼は相変わらず聡明で、笑顔が素敵で、でも、病気が思わしくなくて少しだけ苦しそうで、ちょっとだけ不幸なのかな?と思ったけど、僕は彼が生きていてくれただけで嬉しくて、ちょっとだけ幸せに感じて、期日を指定しない再会の約束をして別れてきました。

あの頃の僕は何も持っていなくて、どん底の人生だったけれど、彼と一緒に過ごせてそんな状況でも笑えたことは、本当に幸せだったなと、改めて思いました。

本当に僕は何もできないでくのぼうだけど、入居者の皆様に刹那でも幸せを感じてもらい笑顔になってもらえる、彼のような温かいケアワーカーになりたいと改めて思いました。

結構今、つらい状況だけど、頑張るよ、俺。

ありがとう。
2017/03/28

箱根板橋時代の思い出の品

 うちの会社のタイムカードは、磁気カードなんですよね、PASUMOとかsuicaといったような。

 普通の使用なら、そんなに寿命とか関係ないかもしれないですけど、お風呂介助などの時の湿気に弱くて、自分の場合、3年で3枚交換しているのですが、またお亡くなりになりました。

 suicaに残高が残ったまま、お亡くなりになったのがもったいなかったので、もう、残高の残っていない、技術校時代に定期として使っていたPASUMOを、タイムカードとして会社で登録していきました。

 つまり、思い出の品を、目先のお金が大事で、売ったわけです(笑)

 まあ、しばらく体に身に着けて仕事をするわけですから、なんかご利益があるといいけれど。

 12年の一月一日までの3か月定期で、とりあえず、10月から通い始めて、年が明けるまではなんとか通学しようと買った定期ですが、そのころの気分を考えたら、いまでもケア・ワーカーを続けているのが不思議です。

 学校もないし、用もないので、しばらく箱根板橋には行っていないですが、通学路にある一度も寄ったことのない、名取裕子さんご用達の豆腐屋さんの豆腐でも買いに行ってみようかな?と思います。

気が付けば、また桜の季節になりましたね。

もう、あの技術校の前の桜並木は無いのかもしれないけど・・・